堺には、今からおよそ1500年前の西暦401~500年(5世紀)の古墳時代に、鍛鉄技術が伝わりました。
平安時代末期ごろより刀製造として引き継がれたこの技術は、
やがて煙管用のたばこを刻むたばこ包丁として、その名を世に知らしめました。
また、堺は豊かな漁場でもあったため、江戸時代には魚を捌くための出刃包丁をはじめとした様々な料理包丁が開発されます。
現在では、プロの料理人の90%が使用しているとも言われている堺の包丁はこうして生まれました。
1797年(寛政9年)版
平瀬徹斎 撰/長谷川光信 画『日本山海名物図会』より
室町時代から、代々刀鑑定を家職とする本阿弥家の光悦は、
その書「亨保名物帳」の中で、"世に名刀が三作ある"という。
「相州五郎入道正宗」
「栗田口藤四郎吉光」
「郷右馬允義弘」
の、三名とその作刀である。大名家は、この名刀を併せて三作とも所持しないと、大名家としての格式を保てないとも言われていた。
時代は下り江戸時代末期に、摂津の住人にして、正国という刀匠がいた。予てより、郷右馬允義弘にあこがれ、何とかその作風に近づきたいと日夜努力するも、とても叶わない。
失意の日々が続いた。
そんな折、正国は泉州住吉の大社に詣でる機会が訪れる。
大社で、所在なく池の中を眺めるに、3匹の亀が水中で華麗に戯れる不思議な様を見ることになる。
1892年(明治25年)版
尾形月耕 著『月光随筆/稲荷山・小鍛冶』より
その夜半、正国は夢を見る。
夢の中では、あの3匹の亀が再び現れ、虚空をくるくる舞う。やがて、スゥーッと鶴にその姿を変え、北陸道へと飛び去ってゆくのであった。
正国、作刀の秘宝を見つけたり。その日より寝食忘れ、鍛刀に精を出す。
水中の亀のようになめらかに、空中の鶴のように優雅にて、鎚を打ち下ろすべし。やがて出来上がりの一口は……。
やがて出来上がりの一口は、素晴らしい上物にて、これぞ右馬允の技術そのものと正国は確信する。
以降、郷右馬允義弘引継と自ら名乗るのであった。
その後、泉州住吉大社吉方に住まいを移し、作刀に精を出すが、郷の在名刀は皆無の物から、ただ中子に正国とのみ入れる。
二代目正次、能く父の奥義を引継ぎ、昭和5年山脇山人の筆頭職人となってよりは、作刀のみならず、泉州伝統の本焼き包丁を製作するに至る。
三代目博次の時、昭和25年山脇刃物製作所の代表銘柄として郷右馬允義弘を登録し、本焼き包丁、本鍛錬包丁に広く刻銘し、現在に至るものである。
この文章は、株式会社山脇刃物製作所に所蔵されている「郷右馬允義弘由来の書」(住吉大社権宮司 敷田年博氏 昭和54年書)を、要約したものです。
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